文化資源発掘

国内でも比類ない博物館群、日本近代以降の学問の集積地、江戸時代以降の地理的・歴史的特徴を湛えた地。このような不忍池を中心とした上野・本郷地域は、見えるところと見えないところにとても多くの文化的な資源を抱えています。当プロジェクトの調査の中で浮かび上がってきたことについて紹介していきます。

記事で参照した文献の一覧 → 参考文献リスト

不忍今昔:森鴎外『雁』の散歩道

今回は森鴎外の小説『雁』のなかで主人公が歩いた上野・本郷の街並みについて、当時の地図を参照しながらご紹介します。 森鴎外『雁』は、明治44年(1911)から大正2年(1913)にかけて、文芸雑誌「スバル」上に連載されました。物語の舞台は明治13年の本郷・上野で、主人公である東京大学医科大学学生の岡田が散歩の途中で高利貸しの妾である玉と顔見知りとなります。玉は岡田に想いを寄せるものの二人が結ば...

2016-10-25 (火)

視覚資料から見る日本博物館の原点—湯島聖堂

湯島聖堂は日本の近代化過程の中で、重要な位置を占めている。この場所は日本の近代教育、大学(東京大学、お茶の水女子大学、筑波大学)、図書館、展覧会文化と博物館の発祥地であり、日本の「近代化」を具体的な形で体現してきた場所だと言ってもいい。いくつかの史料を手かがりとして、本記事は明治初期における日本の展覧会施設と観衆の発展の原点としての湯島聖堂に焦点を当てる。 湯島聖堂は数百年の間に、変化を遂げ...

2016-04-23 (土)

朱舜水という中国知識人の活動から見るしのばずエリア

しのばずエリアは歴史の中で知識人たちの溜まり場で、彼らの活躍を見届けていた。朱舜水(しゅ しゅんすい)(1600-1682)という中国人知識人はその一人として挙げられる。舜水は1668年から82年に亡くなるまで、水戸藩の領地(現在の東京大学農学部あたり)で暮らしていた。彼は日本での儒教発展におおいに貢献し、歴史に名が刻まれている。 中国明朝(1368-1644)の復興運動に挫折した舜水は、漢...

2016-04-23 (土)

不忍今昔:忍川と三橋

上野広小路に面して上野の杜へと誘う上野公園入口には、大正時代まで不忍池池畔から流れる忍川があり、三つの橋が架けられていた。上野の山を訪れる人々が渡ったその橋は「三橋」と呼ばれた。現在ではもう橋は残っておらず、三橋の名前は上野広小路にある老舗の甘味処「みはし」にその面影を残すばかりであるが、明治時代に取り払われるまでの二百年以上にわたって上野の山の玄関としてその橋は広く知られていた。 1. 忍...

2016-04-13 (水)

不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(3)天龍門と博覧会

前回の記事に引き続き、今回の記事は視覚資料と照らし合わせ、博覧会という晴れ舞台のなかの弁天島と天龍門の姿を中心として紹介する。 不忍弁天堂天龍門が大正3年(1914)から昭和20年(1945)までのわずか30年ほどのあいだ建っていた。設計者の伊東忠太はこれが自身の作品の中でもっとも会心の作だと学生の岸田日出刀に話したが、実際の建物の規模は極めて小さかった。起工は大正2年(1913) 3月で、...

2016-04-11 (月)

不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(2)消失した天龍門

前回の記事に引き続き、今回の記事は不忍弁天堂天龍門に焦点を絞り、紹介する。 明治初年の廃仏毀釈運動により、鳥居がなくなった。鳥居の少し奥、岸から弁天堂へ向かう参道の途中に、大正3年(1914)から昭和20年(1945)までのわずか30年ほどだが、「天龍門」という中国風の門が立っていた。そして、不忍池のまわりは「春は桜、夏は蓮、秋は月、冬は雪」(『しのばずの池事典』, 7)と言われて自然が楽し...

2016-04-11 (月)

不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(1)消えた鳥居

不忍池周辺で歴史の中で変わりつつ、姿を消したものがいくつかある。以前不忍池競馬場に触れたが、今回の記事は、かつて弁天島にかけられていた弁天堂の鳥居と門の変遷に焦点を当て、視覚資料をてがかりとして紹介する。 まず、弁天島の成り立ちについて紹介する。不忍池の中之島ができたのは寛永年間(1624-44)。常陸下館(ひたち しもだて)藩主水谷勝隆(みずのや かつたか)(1597-1664)が幕府の朝...

2016-04-11 (月)

上野と本郷連携のルーツを遡る(2)ー東京大学学者による弥生遺跡の発見

前回の内容を受けて、今回の記事では、19世紀末に東京大学の研究者が行った考古学発掘調査に見られる上野と本郷の地域間連携の起源を辿ってみたい。ここに関わる人物には、坪井正五郎(1863-1913)、白井光太郎(1863-1932)、有坂鉊蔵(1968-1941)とそれに続く世代の人々が含まれる。 坪井と白井、有坂は1884年に現在の東京都文京区にある弥生二丁目で弥生式土器を発掘した。その発掘調...

2015-09-21 (月)

上野と本郷連携のルーツを遡るー東京大学若手建築家による本郷文教地区構想

今回は、上野と本郷のふたつの地域を結ぶ試みの初期の例を示した、東京大学の建築家グループによる文京地区計画に焦点を当てる。前回は石川栄耀(1893-1955)のビジョンに触れたが、彼のコンセプトを実際にデザインに落とし込んでいったのは高山英華(1910-1999)や丹下健三(1913-2005)を含め、東京大学の若き研究者、建築家たちであった。 本郷の文教地区基本計画には石川の都市計画構想と南...

2015-09-16 (水)

石川栄耀と彼の盛り場及び文教地区に関するビジョン

本記事では、東京都戦災復興整理事業に描かれた上野本郷地域の発展ビジョンに焦点を当てる。その計画の大部分は、資金不足や東京の人口を削減しようというその非現実的な目標、計画実施における都行政の中央政府への依存ゆえに実現されなかった。しかしながら、それでもなお同計画は、今後の活動における実行可能な方向性を示している。 東京の都市計画と日本の都市計画理論に貢献した中心人物のひとりが石川栄耀(1893-1...

2015-08-11 (火)
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