不忍今昔:上野不忍池競馬場

今日、不忍池はゆるやかな楕円形(図1)をしているが、元からこの形だったわけではなく、明治時代初期までは池の北側から藍染川が注ぎ、現在とはかなり異なった形をしていた。現在の形状は、明治時代に池畔を競馬場として使用するために実施された埋立工事に由来している。ここでは、不忍池競馬場の開設とそれによる池畔の変化について見ていく。

現在の不忍池
図1 現在の不忍池
出典:google maps(2014年5月17日取得)

明治17年(1884)11月1日より不忍池では第一回不忍池競馬が開催された。三日間に渡って不忍池を周回するコースを騎馬が駆け、周辺は大変な賑わいを見せた。主催であった共同競馬会社(英語名:Union Race Club)は明治12年(1879)に設立され、当初は戸山に競馬場を構えていたが、交通の便が悪かったため不忍池へと場所を移すこととなった。
不忍池の競馬場への改修工事は明治17年3月から始まったが、池の埋立から競馬場の整備、そして馬見所の建造といった諸々の行程が約半年間で達成されたことからも、いかに突貫で改修工事がなされたかがわかる。競馬場は同時期に建てられた鹿鳴館と並んで日本の近代化を顕示する社交場であり、競馬場開設は国家的行事として多額の資金が投入されたのである。
工事は、「四十八年ぶりに本格的に池の水を浚渫、その泥土で周囲と池之端茅町(読み:いけのはたかやまち)、仲町の道路沿いの大下水や屈折した所などを埋め立て、それまでの形態では競馬のコースに不適切であった池の周囲をそれにふさわしい楕円形のものにするという大工事」(立川 2008: p.8)だったという。また池の北側にあった洲を埋め立ててつくられた馬見所は、破風造檜皮葺(読み:はふづくりひわだぶき)の二階建総檜造三棟(読み:にかいだてそうひのきづくりさんとう)という豪華なものであった。(図2, 3, 4)

参謀本部陸軍部測量局5千分の1 東京府武蔵国本郷区本郷元富士町近傍及び東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍 (明治16年)
図2 改修前の不忍池
出典:参謀本部陸軍部測量局5千分の1 東京府武蔵国本郷区本郷元富士町近傍及び東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍 (明治16年)

明治二十五年実測東京全図
図3 改修後の不忍池
出典:明治二十五年実測東京全図

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図4 馬見所
出典:上野不忍池競馬場:国立国会図書館近代デジタルライブラリー
http://www.ndl.go.jp/scenery/data/325/index.html (2014年5月17日取得)

こうして明治17年(1884)11月1日より第一回不忍池競馬が開催される運びとなった。開催時の様子については後編に譲るのでここでは触れないが、三日間に渡って開催された競馬には、天皇、参議、大臣、各国大使らが訪れたほか一般の観衆も押し寄せ、周辺の座敷は大賑わいとなったという。その後は春場所と秋場所の定期開催となり、明治23年(1890)の第三回内国勧業博覧会の際には臨時開催されるなど不忍池競馬は上野の名所のひとつとなったが、経営難が続き、明治25年(1892)の秋場所を最後に共同競馬会社による上野不忍池競馬開催は終了した。

参考文献:
立川健治, 2008,『文明開化に馬券は舞う―日本競馬の誕生-競馬の社会史』, 世織書房

作成者  | 2014-12-26 (金)
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