石川栄耀と彼の盛り場及び文教地区に関するビジョン

本記事では、東京都戦災復興整理事業に描かれた上野本郷地域の発展ビジョンに焦点を当てる。その計画の大部分は、資金不足や東京の人口を削減しようというその非現実的な目標、計画実施における都行政の中央政府への依存ゆえに実現されなかった。しかしながら、それでもなお同計画は、今後の活動における実行可能な方向性を示している。

東京の都市計画と日本の都市計画理論に貢献した中心人物のひとりが石川栄耀(1893-1955)である。戦時中政府で、技師及び計画家(プランナー)として働き、1945年の終戦直後に東京都戦災復興整理事業を担当した。当時の復興プロジェクトにおける新規性は緑地計画と文教地区だった。計画では、土地の用途—例えば公館、文教、消費歓興、港湾、医療—に応じて都市は分割された。石川自身は大規模都市を好まず、「大東京は大き過ぎる。いはば精神的に欠陥がある」という言葉も残している。その分散化、すなわち、復興計画においてみられる個々の地域の計画は彼の小さな街を好む志向を反映しているようにみえる。

東京復興地域計画図

東京復興地域計画図。出典:中島直人, 西成典久, 初田香成, 『都市計画家石川栄耀: 都市探究の軌跡』, 鹿島出版会, 2009, p. 192.

上野本郷地域の計画もまた石川の二つのビジョンを明らかにしている。一方は余暇の重視、もう一方は計画段階への市民参加である。石川は生産よりも消費を優先した。そして、日常生活と夜間の娯楽を重要なものとしてみなしていた。盛り場、商店街と鮮やかな夜間照明、この三つは石川が設計において特別に注意を払った面だった。上野は彼が盛り場として想定する商業地域の一つであった。彼が考えた具体策は歩行者用の道路から電話ボックスや電柱を撤去するといった方法を含んでいた。西郷銅像の下、日本最初のファミリー・レストランー聚楽台ーと大衆食堂が入っていた、西郷会館(2012年にUENO3153としてリニューアルオープン)が石川のアイディアにより誕生したものであった。

石川はまた都市の開発段階における市民参加と自治を提唱した。石川の文教地区計画は行政が先導的な役割を担わず、本郷地域の東京大学と上野地域の東京藝術大学といった当該地域の大学が携わる計画という点において特別なものであった。参加型のプロセスはまた都市計画における将来的人材の育成を目標にしていた。

復興事業計画は十分に実現化されていないが、彼の「文教都市計画」に対する都市計画業界の無関心への批判は今日においてもほとんど有効かつ刺激的なものである。2020年オリンピックの開催地としての東京の今後の発展において、石川は現世代に検討し取り組むべきいくつかの課題を残している。

参考文献:
Tiratsoo, Nick, 松村高夫, Tony Mason, 『戦災復興の日英比較』, 知泉書館, 2006.
中島直人, 西成典久, 初田香成, 『都市計画家石川栄耀: 都市探究の軌跡』, 鹿島出版会, 2009.
佐藤俊一, 『石川栄耀:都市計画思想の変転と市民自治』, 自治総研通巻428号, 2014年6月号.
矢部早知子, 『石川栄耀の“夜”の思想—照明活動を通して—』, 早稲田大学創造理工学部建築学科建築史研究室, 修士論文, 2011.
西成典久, 『都市広場をめぐる石川栄耀の活動に関する研究』, 東京工業大学, 博士学位論文, 2007.

作成者  | 2015-08-11 (火)
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