不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(2)消失した天龍門

前回の記事に引き続き、今回の記事は不忍弁天堂天龍門に焦点を絞り、紹介する。

明治初年の廃仏毀釈運動により、鳥居がなくなった。鳥居の少し奥、岸から弁天堂へ向かう参道の途中に、大正3年(1914)から昭和20年(1945)までのわずか30年ほどだが、「天龍門」という中国風の門が立っていた。そして、不忍池のまわりは「春は桜、夏は蓮、秋は月、冬は雪」(『しのばずの池事典』, 7)と言われて自然が楽しめる場所として知られた。また弁天様はご利益を求める場所から、もう一種のハレの場へ変貌していた。それは、博覧会という国家事業の中で行われた。博覧会の会場の一部として弁天島の環境整備やパビリオン、橋の補強などインフラの建設が行われ、いくつか新しい建造物もできた。その新しく作られたものの一つである天龍門は、浮世絵や絵葉書にもしばしば登場する。

この天龍門は設計者である伊東忠太にとって特別なものであった。明治初年から大正初年にかけ、鳥居のない弁天堂に門を作りたいと思ったのか、寛永寺の住職は伊東忠太に門の設計を依頼した。この依頼は別格なもので、忠太の学生だった岸田日出刀の回想によると、依頼者側は「芸術家なり建築家というものを良く理解していて、全部を博士(伊東忠太)にまかせきって、何ひとつ干渉がましい注文をしなかった」という。この発注者による「干渉の少ない」設計は細部までオリエンタルの装飾が施されていて、忠太の中国訪問(明治34-35年・1901—1902)による影響と「建築進化主義」思想を反映しているようだ(Fig.1, Fig. 2)。忠太の「建築進化主義」は生物というメタファーを使い、西欧を完全に模倣する「欧化主義」 (帰化主義)の建築スタイルを否定した。将来の日本建築を展望し、忠太は「日本古来の様式を基礎とし、之を進化せしめて結局日本の国民趣味を発揮したる石造の公共建築に達し度い」という論説を残した(佐藤 2006, 261)。忠太の研究者である倉方俊輔は東京大学建築学科と明治村博物館の所蔵の忠太の設計図(明治44-45年・1911-1912)と実際にできたもの(Fig. 3)を比較調査して、全体構成に変化がなく細部の変更も少ないことから、この門の設計は「計画の性格」を持っていると述べた(2002, 283)。建設より二、三年ほど前に描いた設計図をそのまま施工に移すことができたのも、施主の寛永寺から追加の注文など少なかったからかもしれない。建築素材に関しては、拱門は白タイルと花崗石貼、屋根は青銅葺、木部は赤漆塗が用いられた。門は実際には石造ではなかったが、花崗石貼によって忠太の「石造の公共建築」へのこだわりを反映している。自らの思いがそのまま実現できたからか、忠太は自身の作品の中でこの門をもっとも気に入って、会心の作だと岸田に伝えた。

施工工事は大正2年(1913年)から同3年までの1年間で、上野での東京大正博覧会(1914年3月20日-7月31日)の開催に間に合わせたように見える。次回の記事は東京大正博覧会と昭和初期の視覚資料から、天龍門がどのように映っていたのかを探る。

不忍弁天堂天龍門 立面図,「伊東忠太建築作品」, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941, p. 62.

Fig. 1 不忍弁天堂天龍門 立面図,「伊東忠太建築作品」, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941, p. 62.

 

Fig. 2 不忍弁天堂天龍門 上部詳細,「伊東忠太建築作品」, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941, p. 62.

Fig. 3不忍弁天堂天龍門 外景,「伊東忠太建築作品」, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941, p. 63.

Fig. 3 不忍弁天堂天龍門 外景,「伊東忠太建築作品」, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941, p. 63.

参考文献
谷根千工房,『しのばずの池事典』,1989.
倉方俊輔,「伊東忠太の最初期の創作活動について 一明治期の図面類にみる伊東忠太の設計活動 その1一」,日本建築学会計画系論文集第558号, 279−284, 2002年8月。
『伊東忠太建築作品』, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941.
鈴木博之編著, 『伊東忠太を知っていますか』, 松戸: 王国社, 2003.
岸田日出刀, 『建築学者伊東忠太』, 東京: 乾元社, 1945.

作成者  | 2016-04-11 (月)
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