天龍門

不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(1)消えた鳥居

不忍池周辺が歴史の中で変わりつつ、姿を消したものがいくつある。以前不忍池競馬場に触れたが、今回の記事はかつて弁天島にあった弁天堂の鳥居と門の変遷に焦点を当て、視覚資料をてがかりとして、紹介する。

まず、弁天島の成り立てについて紹介する。不忍池の中之島ができたのは寛永年間(1624-44)。常陸下館藩主水谷勝隆が天海とはかり、不忍池を琵琶湖にみたて、弁天島を琵琶湖の竹生島にみたて、不忍池に中島を築き、弁天様を祀る弁天堂を建てた。また、不忍池を中国の杭州にある西湖にみたて、中之島を西湖の湖心にある人工の島をみたていたという説もある。当初は橋がなく、舟で参詣していた。寛文年間、石橋ができ、参詣路となった。寛永年間(1748-50)弁天堂の後ろに、四つ折りとなっている四つ橋が架けられ、水に映じて八つに見えたので「八つ橋」として上野の名物に加えた。島に最初の茶屋ができたのもこの頃だった。

弁天堂ができてから、上野の名所となっていた。本尊は八臂大弁財天長寿福徳の神、脇士は多聞天と大黒天。弁財天は土地豊饒、福、音楽、弁舌の女神として、江戸時代から庶民や芸の上達を願う芸者に親しまれ、多くの人々が訪れていた。江戸東京博物館所蔵の資料からこの様子を確認できる。橋本周延が描いた「見立十二支 巳 不忍弁財天」(明治26年・1893)(Fig. 1)から、不忍弁財天と芸能との関連を反映している。歌川国安作の「不忍辨財天之図」(文化8年-11年頃・1811-1814)(Fig.2)の中、たくさんのお参りに来ている人で賑わっている様子も描かれている。

弁天島と池の岸の間、弁天堂の正面を強調する鳥居があった。弁天堂の東側に、最初に木造の鳥居が立っていて、後ほど、唐銅造りとなり、享保九年(1724)細井広沢の筆になる「天龍山」の額が揭げられた。広沢の筆が歌川国安作の「不忍辨財天之図」(Fig.2)からも確認できる。明治初年の廃仏により、神仏分離が行われて、鳥居があった弁天堂は寛永寺から分離されそうになったところ、寛永寺は弁財天が仏であると主張し、鳥居を撤去しただけで済んだそうだ。東京都立図書館のTOKYOアーカイブに入っている、明治4年(1871)の昇斎一景の錦絵、「東京三十六景」「四」「不忍弁天」から、鳥居がなくなっている様子が見られる。

大正に入って、鳥居が立っていたところ、伊東忠太の設計による、不忍弁天堂天龍門が建てられる。次の記事はこの天龍門を中心として紹介する。

 

Fig. 1 「見立十二支 巳 不忍弁財天」,橋本周延,明治26年 (1893年)。江戸東京博物館収蔵。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0186200909

Fig. 2 浮絵「不忍辨財天之図」,歌川国安,文化8年-11年頃(1811-1814)。江戸東京博物館収蔵。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0196201747

 

Fig. 3 錦絵「東京三十六景」「四」「不忍弁天」,昇斎一景,明治4年(1871)。東京都立図書館TOKYOアーカイブ
http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00007639

 

参考文献
谷根千工房,『しのばずの池事典』,1989年。


 

不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(2)消失した天龍門

明治初年の廃仏毀釈により、鳥居がなくなって、その場所に、大正3年(1914)から昭和20年(1945)まで、わずか30年ほどだが、「天龍門」という中国風の門が立っていた。そして、不忍池のまわりは「春は桜、夏は蓮、秋は月、冬は雪」、自然が楽しめる、また弁天様のご利益の求める場所から、もう一種のハレの場へ変貌していた。それは、博覧会という国家事業の中で行われていた。弁天島は博覧会の会場の一部として工事などを取り込み、弁天堂と新たに作られた天龍門が浮世絵や絵葉書にもしばしば登場する。

この天龍門は後ほど設計者である伊東忠太のもっとも会心の作となる。明治初年から大正初年にかけ、鳥居のない弁天堂に門を作りたいと思ったか、寛永寺の住職は伊東忠太に設計を依頼した。この依頼の件はまた別格なもので、忠太の学生、岸田日出刀の回想によって、依頼者側は「芸術家なり建築家というものを良く理解していて、全部を博士(伊東忠太)にまかせきって、何ひとつ干渉がましい注文をしなかった」。この「干渉の少ない」設計、細部までオリエンタルの装飾が施されていて、忠太の中国への訪問(明治1901—1902)と「建築進化主義」思想を反映しているようだ(Fig.1, Fig. 2)。忠太の「建築進化主義」は生物というメタファーを使い、完全に西欧の模倣する「欧化主義」 (帰化主義)の建築スタイルを否定した。将来の日本の建築を展望し、忠太は「日本古来の様式を基礎とし、之を進化せしめて結局日本の国民趣味を発揮したる石造の公共建築に達し度い」という論説を残した。忠太の研究者である倉方俊輔が東京大学建築学科と明治村博物館の所蔵の忠太の設計図(明治44-45年・1911-1912)を調査し、それらと実際にできたもの(Fig. 3)を見比べ、全体構成に変化がなく、細部の変更も少なく、「計画の性格」を持っていると述べた。建設より二、三年ほど前描いた設計図、そのまま施工に移すことができたのも、施主の寛永寺から追加の注文など少なかったからかもしれない。建築素材に関して、拱門は白タイルと花崗石貼、屋根は青銅葺、木部は赤漆塗。石造ではなかったが、花崗石貼で忠太の「石造の公共建築」へのこだわりを反映している。自分の思いがそのまま実現できたのか、忠太はこの門が自分の作品の中でもっとも気に入って、会心の作だと岸田に伝えた。

施工工事は大正二年(1913年)から三年三月まで1年で、上野での東京大正博覧会(1914年3月20日-7月31日)の開催に間に合わせるように見える。次回の記事は東京大正博覧会と昭和初期の視覚資料から、天龍門がどのように映っていたのかを探る。

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Fig. 1不忍弁天堂天龍門 立面図,「伊東忠太建築作品」, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941, p. 62.

 

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Fig. 2不忍弁天堂天龍門 上部詳細,「伊東忠太建築作品」, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941, p. 62.

 

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Fig. 3不忍弁天堂天龍門 外景,「伊東忠太建築作品」, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941, p. 63.

 

参考文献
谷根千工房,『しのばずの池事典』,1989.
倉方俊輔,「伊東忠太の最初期の創作活動について 一明治期の図面類にみる伊東忠太の設計活動 その1一」,日本建築学会計画系論文集第558号, 279−284, 2002年8月。
『伊東忠太建築作品』, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941.
鈴木博之編著, 『伊東忠太を知っていますか』, 松戸: 王国社, 2003.
岸田日出刀, 『建築学者伊東忠太』, 東京: 乾元社, 1945.


 

不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(3)天龍門と博覧会

不忍弁天堂天龍門が大正3年(1914)から昭和20年(1945)まで、わずか30年ほど立っていた。設計者の忠太はこれが自分の作品の中でもっとも会心の作だと学生の岸田日出刀に話ししたが、実際の規模は極めて小さかった。起工は大正二年 (1913) 三月で、竣工は大正三年(1914)三月、ちょうど東京大正博覧会の開催(1914年3月20日-7月31日)まで、わずか一年間。工費はただの二万円で、忠太が東京大正博覧会のために設計した博物館正門前華表の建設費(六ヶ所)の3,931,200円の0.5%、博覧会の第一正門の9,830,000円の0.2%しか及んでいなく、驚きほど安くできたのを分かる。

天龍門は規模が小さいが、会場案内図や会場の風景を記録していた絵葉書にははっきりとした姿で登場している。乃村工藝社博覧会コレクションの中の資料で、天龍門の様子を確認できる。「東京大正博覧会イルミネーションノ壮観」と題したFig.1と「東京大正博覧会-図版-4」、この二つの図版のなかで、天龍門は夜のイルミネーションや弁天堂まで桜の参謁道の華やかな世界の一部として、また博覧会のパビリオン、オリエンタル様式をとった台湾館、染織別館、日華貿易館、奏楽堂と響き合っている存在が映されている。東京大正博覧会案内図(Fig. 3)を見れば、天龍門が第二正門のすぐとなりにあって、不忍池第二会場の二つ目の顔になる。その案内図に、弁天島に「天リウ山」、「大コク」、「弁天堂」と「リョリヤ」が書かれている。弁天島はケーブルカーや噴水と共に、晴れ舞台となった不忍池を飾り、また後ろの観月橋とつなぎ、池を渡る近道としての役割も果たしていたことは間違いないだろう。

1914年7月に、メガイベントの東京大正博覧会は幕を下ろした。1922年3月22日から7月31日まで開催された平和記念東京博覧会で、天龍門は引き続き、不忍池を渡る道にアクセントを置いていた。観察収集家の林丈二が長年渡って集めていた絵葉書コレクションの中、「平和記念東京博覧会 平和塔上より見たる第二会場全景」から、天龍門が弁天堂の入り口として、イベントで賑わっている不忍池の一部としての姿ははっきり描かれている。

博覧会でない時の弁天島と天龍門は昭和初期の絵や絵葉書にも現れていた。江戸東京博物館と東京国立近代美術館の収蔵の中、小泉癸巳男の「不忍池畔の春雨」(1929-1937)、吉田博の「東京拾二題 不忍池」 (1928)と川瀬巴水の「東京二十景 不忍池之雨 試摺」(1929)(Fig. 4-6) から、天龍門が柳などと一緒に、雨の情緒を演出した。

これらの視覚資料から確認できるのは天龍門の場所や形だけでなく、東京の名所の一つとして認識し、愛されていたことも分かる。存在はわずか三十年間だが、寛永寺の土地や徳川の墓地から新政府の国家として盛り上がっていた博覧会の会場へ、上野公園の性質のシフトを見届けていた。昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で弁天堂と天龍門がともに焼失された。昭和33年(1958年)に弁天堂は鉄筋コンクリート造の八角堂として再建されたが、天龍門はこれらの資料に残ったままであった。

Fig.1 「東京大正博覧会イルミネーションノ壮観」 局部。乃村工藝社博覧会コレクション。

 

Fig. 2 「東京大正博覧会-図版-4」局部。乃村工藝社博覧会コレクション。

 

Fig. 3 「東京大正博覧会案内図」 局部。乃村工藝社博覧会コレクション。

 

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Fig. 4絵葉書「平和記念東京博覧会 平和塔上より見たる第二会場全景」。林丈二所蔵。

 

Fig. 5 「東京拾二題 不忍池」, 吉田博, 昭和3年 (1928)。江戸東京博物館収蔵。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0191222114

 

Fig. 6 「東京二十景 不忍池之雨 試摺」, 川瀬巴水,     昭和4年 (1929)。江戸東京博物館収蔵。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0193202363

 

Fig. 7 「昭和大東京百図絵」より 改版 「48.不忍池畔の春雨」, 小泉癸巳男,  1929-1937。東京国立近代美術館。
http://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/63765/63765

 

参考文献
谷根千工房,『しのばずの池事典』,1989.
東京府廳, 『東京大正博覽會事務報告』 上巻 「第七節 建築費」,1916, pp. 121-125.
倉方俊輔,「伊東忠太の最初期の創作活動について 一明治期の図面類にみる伊東忠太の設計活動 その1一」,日本建築学会計画系論文集第558号, 279−284, 2002年8月。
『伊東忠太建築作品』, 伊東博士作品集刊行會, 東京: 城南書院, 1941.
鈴木博之編著, 『伊東忠太を知っていますか』, 松戸: 王国社, 2003.
岸田日出刀, 『建築学者伊東忠太』, 東京: 乾元社, 1945.

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