三橋周辺

忍川と三橋

上野広小路に面して上野の杜へと誘う上野公園入口には、大正時代まで不忍池池畔から流れる忍川があり、三つの橋が架けられていた。上野の山を訪れる人々が渡ったその橋は「三橋」と呼ばれた。現在ではもう橋は残っておらず、三橋の名前は上野広小路にある老舗の甘味処「みはし」にその面影を残すばかりであるが、大正時代に取り払われるまでの二百年以上にわたって上野の山の玄関としてその橋は広く知られていた。

1.  忍川

忍川は不忍池の西南部から東へ流れる川で、上流では「藍染川」や「谷田川」と呼ばれた。その源流は巣鴨の御薬園(移転した旧東京外語大のあたり)といわれ[1]、本郷台地と上野台地の間の根津谷を通って北部から不忍池へそそぎ、不忍池から先は忍川として、広小路を横切り三味線堀を通って隅田川へ抜けた。忍川の成立時期は定かではないが、正保年間(1644〜1647)に作成されたとされる絵図には不明瞭ながらも川らしきものが描かれ[2]、延宝年間(1673〜1681)から天和三年(1683)の絵図にははっきりと不忍池から東方へ流れる川の存在を見て取ることができる[3]。忍川及び三橋の遺構を対象とした発掘調査の結果によれば、忍川は自然の河川ではなく、藍染川の流入する不忍池の排水のために人工的に開削された水路である[4]

忍川の流域は時代により変化している。延宝年間(1673〜1681)から享保二〜三年(1717〜1718)の江戸切絵図では、不忍池東南端が落口となって三橋方面へと水路が始まっているが、文政三年(1820)の切絵図では不忍池畔の西部から南部にかけて土手が造成されている[5]。享保三年から文政三年の間の約百年の間に、北端の藍染川の流入口から東南端の流出口にかけて土手が造成され、堀ができたことで忍川は不忍池のまわりをめぐって東方へ抜ける水路となった。

稲垣史生『江戸の面影(一)』によると、延享四年(1747)から宝暦二年(1752)にかけて、不忍池の仲町から茅町にそって土手が築かれていたようである。本段落では稲垣の記述を引用する。延享四年(1747)にはじまった、不忍池の泥土の浚渫によって出た泥土を使った土手の造成は、池の南側仲町沿いに茅町中ほどまで及んだ。土手は「新地」と呼ばれ、料理茶屋約60軒が並び、楊弓場や講釈場もできて賑わい、寛延二年(1749)には弁天島から茅町側土手に向かって四つ折りの橋がかけられた。水面に反射して橋が八つに見えたことから「八つ橋」と呼ばれて不忍池の名物となった。こうして「新地」はにわかに盛り場と化したが、不忍池出合茶屋による風紀の乱れと、汚水の放流による池の魚や蓮への悪影響のため、幕府は五年後の宝暦二年(1752)に茶屋の取り払いを命じ、八つ橋も撤去したという[6]。明和七年(1771)の「明和江戸図」[7]では、池の南側の仲町から茅町の中ほどにかけて土手らしきものを見ることができる。

その後、文政三年(1820)に再び土手が造成されたという。今度も不忍池から浚った泥土を用いて、「三橋寄り池の落口から茅町裏まで、長さ六、七町に幅六、七間というもの、前例に懲りて汚水が池へ入らぬよう、土手と南側の切り落としの道の間に、幅三間ばかりの隙間を作った」(稲垣 2009: 第二章)。この稲垣の記述は、文政三年(1820)年作成の切絵図上の土手の表記とも一致している[8]。台東区史によれば、「土手には多くの茶屋が並び繁盛していたが、天保の改革により取り払われた」(台東区史: 296)という。なぜか、同じ江戸城下変遷絵図集第15巻(全20巻)』内に収められた天保十三年(1842)と天保十五年(1844)の切絵図には土手が見られない[9]が、天保年間(1830〜1844)に作成された「天保江戸図」[10]では、土手と五つの橋が描かれている。また安政四年(1857)作成「東都下谷絵図」[11]、明治二年(1869)作成「明治二年東京全図」[12]においても土手が描かれていることから、文政三年(1820)の造成後、土手自体は継続的に維持されたと思われる。明治11年(1878)の「東京上野公園地実測図」では、藍染川が不忍池の手前で分岐して、池へ流入するものと、池の周囲をたどって忍川へつながるものとの二本が流れる様子を詳細に見て取ることができる。台東区史によれば、「土手の道は格好の散歩道」であり、土手と池之端仲町、茅町を結んで渡してあった橋は「下流から龍門橋、雪見橋、月見橋、中ノ橋、花見橋、蓮見橋となっていた」(台東区史: 296)という。これらの橋と土手の様子は当時の風俗を描いた絵や写真にも残されている[13]

明治17年(1884)3月から、不忍池を競馬場として整備するため、池の北部を埋め立て池畔の工事がなされた。これにより、ほぼ今日と同様の不忍池の形状が完成した。それから七年後の明治23年(1890)に作成された「東亰精測新圖」[14]では、まだ競馬場の外側に忍川の存在を見て取れることから、不忍池競馬場のコースは土手と池の外周を接続して設置されたと考えられる。こうして明治17年(1884)11月1日より第一回不忍池競馬が開催された。三日間に渡って開催された競馬には、天皇、参議、大臣、各国大使らが訪れたほか一般の観衆も押し寄せ、周辺の座敷は大賑わいとなったという。その後、競馬は春場所と秋場所の定期開催となり、明治23年(1890)の第三回内国勧業博覧会の際には臨時開催されるなど不忍池競馬は上野の名所のひとつとなったが、経営難が続き、明治25年(1892)の秋場所を最後に上野不忍池競馬開催は終了した[15]

明治四十年(1907)の東京勧業博覧会は、それ以前の博覧会とは異なり、不忍池周辺を第二会場として使用した。不忍池競馬場跡地の不忍池の周囲には台湾館、朝鮮館、外国館などの建物と各府県の売店が並び、ウォーターシュートも設けられ、たいへんな人気を集めた。弁天島から西側へ向かって観月橋がかけられたのはこの時で、博覧会終了後も外国館などの建物とともに維持され、関東大震災後の復興計画の一環として外されるまで、不忍池の名物として親しまれた[16]

2.  三橋

忍川にかかる三橋の起源は定かではないが、延宝年間(1673〜1681)から天和三年(1683)の絵図ではひとつの橋だった[17]が、元禄十年(1697)の絵図では下谷広小路(現在の上野広小路)の登場とともに三つの橋がかけられている[18]。元禄十年(1697)は、寛永寺の根本中堂が建設中だった年であり、翌元禄十一年(1698)に完成した[19]。元禄年間にはこの本堂にあたる根本中堂のほか、山門である文珠樓や清水堂が完成[20]していることから、創建から七十年にわたって造営が続けられてきた寛永寺伽藍が徳川将軍家の菩提寺としての威容を整えた時期であるといえる。そして三橋の建設もまた、徳川将軍家が寛永寺に参詣するさいの御成道であった下谷広小路の整備と並んで、寛永寺の寺院としての体裁を整える整備の一環としてなされたものだといわれる[21]

三橋の名前の由来については、三つの橋のうち中央は将軍や大名、勅使だけが渡ることを許された「御橋」と呼ばれたことによる説もあるが、単に三つの橋が並んでいたことに由来するといわれる[22]。『御府内備考』においても「広小路元仁王門前にて忍川に架せり、三橋並びあるゆへ呼名とす。中の橋は御成通にして幅六間余あり、左右は幅弐間許、三橋共長三間余の板橋なり。」(大日本地誌大系刊行会編 1914: 418)とされている。また、この記述からは、三つの橋の幅だけでも十間(およそ18メートル)を超えるものであったことがわかる。

3.  忍川の暗渠化と三橋の撤去

三橋は明治時代に忍川の暗渠化に伴い姿を消すのだが、その時期については定かではない。明治23年(1890)の第三回内国勧業博覧会のさい来場者の混雑を予想してひとつの橋にする案が出されている[23]ことから、明治23年(1890)第三回内国勧業博覧会から明治36年(1903)の春日通り全面開通までの間に、木造橋だった三橋は三つの橋から強度の高いひとつの橋となり、その後忍川の暗渠化とともに姿を消したと考えられる[24]

 

[1] 上野の杜事典編集会議『新版上野のお山を読む』pp.65-66.参照。

[2] 青木学, 川西直樹, 小俣悟, 浦井正明, 稲葉和也『上野広小路(台東区埋蔵文化財発掘調査報告書34)』p.48. 参照。

[3] 幕府普請奉行編『江戸城下変遷絵図集第15巻(全20巻)』pp.151-153. 参照。

[4] 上野広小路の地下駐車場建設工事に伴う事前調査として実施された。詳しくは、青木学, 川西直樹, 小俣悟, 浦井正明, 稲葉和也『上野広小路(台東区埋蔵文化財発掘調査報告書34)』参照。

[5] 幕府普請奉行編『江戸城下変遷絵図集第15巻(全20巻)』pp.151-161. 参照。

[6] 「新地」は、稲垣史生『江戸の面影(一)』第二章を参照した。また、小川顕道『塵塚談』(1814)の中に「東叡山の麓不忍池に、寛政年間、新地出来、根津の方へ橋をかけし也、新地は下谷仲町うらより根津茅町うら迄、池の廻りを築出しこしらへ、橋は弁天堂の後より茅町の方へ、橋を四ッ折にして掛たり、水にうつりて八ッにみゆる故の、八ッ橋と異名せり、新地には料理茶屋、楊弓場、講釈場、瑞竜軒など出たり、其外家居建つらね、非人、豆蔵迄出て、繁昌し、賑かに有しが、右新地出来しにより、池中の鯉、鮒の類、多く死ける由、宮様の御聞に達し、御心の不叶して、間もなく取こぼち、如元池となれり」という記述があるようだが【未確認】。

[7] 国際日本文化研究センター所蔵「明和江戸図」http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1254.html(取得日:2016年2月29日)参照。

[8] 幕府普請奉行編『江戸城下変遷絵図集第15巻(全20巻)』pp.161. 参照。

[9] 幕府普請奉行編『江戸城下変遷絵図集第15巻(全20巻)』pp.163-165. 参照。

[10] 国際日本文化研究センター所蔵「天保江戸図」http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1257.html(取得日:2016年2月29日)参照。

[11] 国際日本文化研究センター所蔵「東都下谷絵図」http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1376.html(取得日:2016年2月29日)参照

[12] 国際日本文化研究センター所蔵「明治二年東京全図」http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1261.html(取得日:2016年2月29日)参照

[13] 上野の杜事典編集会議『新版上野のお山を読む』pp.137-144にわたって掲載された伊藤晴雨作「上野附近十二題」や、宮尾しげを『東京名所図会 下谷区・上野公園之部』内挿画「池のはた」や写真「茅町池之端通」を参照。

[14] 国際日本文化研究センター所蔵「東亰精測新圖」http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1281.html(取得日:2016年2月29日)参照

[15] 不忍池競馬については、立川健治『文明開化に馬券は舞う―日本競馬の誕生-競馬の社会史』第4章を参照した。

[16] 藤島亥治郎『ジャーナリズムに見る明治の上野』pp.83-85., 上野の杜事典編集会議『新版上野のお山を読む』p.63. 参照

[17] 幕府普請奉行編『江戸城下変遷絵図集第15巻(全20巻)』pp.151-153. 参照。

[18] 稲葉和也「第5章関連調査:第2節上野広小路遺跡の橋梁遺構について」『上野広小路(台東区埋蔵文化財発掘調査報告書34)』p.45. 参照。

[19] 田邊泰「寛永寺建築論」『建築學會論文集』5, pp.5-6. 参照。

[20] 田邊泰「寛永寺建築論」『建築學會論文集』5, pp.6-7. 参照。

[21] 浦井正明「第5章関連調査:第1節三橋考」『上野広小路(台東区埋蔵文化財発掘調査報告書34)』pp39-41, 稲葉和也「第5章関連調査:第2節上野広小路遺跡の橋梁遺構について」『(前掲)』p.45. 参照。稲葉は、将軍綱吉が、元禄十一年に永代橋の架橋を命じ、その通行を寛永寺の竣工に合わせて8月朔日としたこと、永代橋と根本中堂の建設木材の請負人が同一人であり、寛永寺伽藍の建設が幕府直轄の作事奉行が関わっていたことから、三橋の建設も幕府の下になされたのではないかと推定している。

[22] 浦井正明「第5章関連調査:第1節三橋考」『上野広小路(台東区埋蔵文化財発掘調査報告書34)』p.41. 参照。

[23] 東京都台東区『台東区百年の歩み』p.312.参照。

[24] 浦井正明「第5章関連調査:第1節三橋考」『上野広小路(台東区埋蔵文化財発掘調査報告書34)』p.42. 参照。

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