タグ :「伊東忠太」一覧

朱舜水という中国知識人の活動から見るしのばずエリア

しのばずエリアは歴史の中で知識人たちの溜まり場で、彼らの活躍を見届けていた。朱舜水(しゅ しゅんすい)(1600-1682)という中国人知識人はその一人として挙げられる。舜水は1668年から82年に亡くなるまで、水戸藩の領地(現在の東京大学農学部あたり)で暮らしていた。彼は日本での儒教発展におおいに貢献し、歴史に名が刻まれている。 中国明朝(1368-1644)の復興運動に挫折した舜水は、漢...

2016-04-23 (土)

不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(3)天龍門と博覧会

前回の記事に引き続き、今回の記事は視覚資料と照らし合わせ、博覧会という晴れ舞台のなかの弁天島と天龍門の姿を中心として紹介する。 不忍弁天堂天龍門が大正3年(1914)から昭和20年(1945)までのわずか30年ほどのあいだ建っていた。設計者の伊東忠太はこれが自身の作品の中でもっとも会心の作だと学生の岸田日出刀に話したが、実際の建物の規模は極めて小さかった。起工は大正2年(1913) 3月で、...

2016-04-11 (月)

不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(2)消失した天龍門

前回の記事に引き続き、今回の記事は不忍弁天堂天龍門に焦点を絞り、紹介する。 明治初年の廃仏毀釈運動により、鳥居がなくなった。鳥居の少し奥、岸から弁天堂へ向かう参道の途中に、大正3年(1914)から昭和20年(1945)までのわずか30年ほどだが、「天龍門」という中国風の門が立っていた。そして、不忍池のまわりは「春は桜、夏は蓮、秋は月、冬は雪」(『しのばずの池事典』, 7)と言われて自然が楽し...

2016-04-11 (月)

不忍今昔:視覚資料から見る不忍弁天堂(1)消えた鳥居

不忍池周辺で歴史の中で変わりつつ、姿を消したものがいくつかある。以前不忍池競馬場に触れたが、今回の記事は、かつて弁天島にかけられていた弁天堂の鳥居と門の変遷に焦点を当て、視覚資料をてがかりとして紹介する。 まず、弁天島の成り立ちについて紹介する。不忍池の中之島ができたのは寛永年間(1624-44)。常陸下館(ひたち しもだて)藩主水谷勝隆(みずのや かつたか)(1597-1664)が幕府の朝...

2016-04-11 (月)

ここはどこ?:ジョサイア・コンドル像

ジョサイア・コンドル像は今日東京大学の静かな工学部キャンパスに立ち、元から景観の一部をなしているように見える。広場の中心から離れて工学部一号館に背にして南向きに位置するこの等身大の記念碑は、通行人を脅かしたり畏れを抱かせたりすることなく温かな雰囲気を醸しだしている。人々は時々像のまわりの芝生でピクニックする。 英国生まれのコンドルは25歳で明治政府に雇われ、官民で人気の建...

2014-09-16 (火)
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